Cocco~その①~
今日はCocco。今回のイベントのトリです。思い入れが強すぎて、長文間違いなしです・・・。過去に音泉HPブログで書いたことと重複するところもありますが改めて。お時間許す限りお付き合いください。
初めてライブを見たのは10年前。心斎橋クアトロのイベント。確かそれが大阪初ライブだった。ノイジーなギターにのせて「首」「カウントダウン」 と言った初期の鋭角的な部分が突出した激しい曲を髪を振り乱し裸足で歌う様に「ナニ?ナニ?」って感じで、予備知識がないまま偶然見た僕は、ただただ圧倒されたまま、刺されたまま終わってしまったのが、一方的な初めての出会いでした。
その後大ヒットした「強く儚いものたち」 で完璧にヤられてしまいました。同じくノイズがかったギターで始まるも、キレイであたかも“虹”のような曲の展開、アブノーマルながら確信をついた歌詞。そしてなんと言っても圧倒的な歌の上手さ。それまでのCDも全部聴き返して、またたくまに僕は「おっかけ」になってしまいました。その年の年末に初めてのツアー。仕事ではまだ関われてなくて、最終日の東京に見に行ったライブで完璧に打ちのめされました。「こんなアーティストは一生出会えないかも・・・」。ちなみに、この日のライブ終わりで彼女は裸足のまま、楽屋から夜の街に消えてしまったらしいです。(仕事でこんな人に関わるのはホントは大変。僕はドMなので嫌いじゃないです)
ベタ惚れしてしまった僕は、次の年98年のツアーから仕事として参加させて頂くという恩恵に預かります。関西は大阪厚生年金会館。言葉を借りると「うんこするのと同じように日常的などうしようもない感覚」で「自分の為に」歌わざるを得なかった彼女が、リスナーの存在と支えてくれるスタッフの存在に気付き、何かが変わったターニングポイント的なツアーになったと記憶してます。最終日の武道館は圧巻だったことも。
その2年後、彼女は三度(みたび)ツアーに出ます。関西はクアトロと大阪城ホール。実に完成された潔いライブ。特にクアトロのライブは僕がこの仕事してきて、いまだ何本指に入る凄まじいライブでした。会場を埋め尽くした700人のお客さんと同じく、最初から最期まで全く身動きさせて貰えない、凄まじいバンドの音と曲の潜在力、パフォーマンス、声・・・こんな緊張感と出音の気持ち良さに五感が埋め尽くされるライブは、いまだ記憶に無いです。2時間弱。悲しくもないのに涙が止まらなかった。感動する演奏を目の当りにすると“鳥肌”立ちますよね?その“鳥肌”を通り越した状態が全く切れずに2時間あまり続くのです。こんな究極なライブに出くわすと、目から液体が訳もなく流れ続けることを教わりました。
そしてこのツアーの翌年、彼女は突然活動を中止してしまいます。そのあまりも唐突な展開に途方にくれてしまい「なんで?×∞」という気持ちでいっぱい。置き土産的に発表された「焼け野が原」という曲を聞くと、いまだに泣けます。情けないけど、泣かされてばっかり。辞めた理由を直接聞いた訳ではないのですけど、あまりに感受性が激しい彼女は「やりたいこと」と「実際にやれること」のバランスがとれなくなって、それはまわりに迷惑をかけることにつながることを察知して、死ぬほど「歌いたい」とやっと思えたのに(デビュー当時には考えられない状態)も関わらず、姿を消してしまいました。自分で表現出きるように。新しい「船」を求めて行ってしまったのでした。
しかし「嘘」が嫌いな彼女は、関西でその時点で最期のライブになった大阪城ホールで「また、くるから・・・」と言い残したまま活動中止したことに心を痛めて、なんとギターを持って大阪にひとりで突然歌いにきたのです。普通のスレた業界の感覚だと「なんだそれ!」ですが、これがCoccoなのです。でも、それはホントに突然だったので、僕らは会場を押さえている筈もなく、チケットも当然売ってる状態でもなく・・・至った結論が「路上で演奏すること」でした。人がある程度いて、演奏するのに良さげなところを求めて、夜の心斎橋を徘徊しました。なかなか良い場所が無くて、ビッグステップのベンチに座って、一般の人達と入れ替わりスケーター達が路上をわがもの顔にしだした頃、時計の針は夜の10時。焦りました。ただ演奏するだけでは無くて、そこに「意味」を残さないといけないことを考えると、ゲリラ過ぎるこの状態に途方にくれてしまいました。少なくとも「音楽ファンの人に集まって欲しい」と考えて、丁度その時間生放送しているFM802のDJ・マーキーさんの番組に、「弾き語りライブをやるのダ」メッセージを彼女が書いてFAXしました。時間は夜24:00、場所はビッグステップ北側のSOGO駐車場前。こんな本当に唐突過ぎるゲリラライブが果たしてあり得るのか・・・・。不安の極地に居ると、24:00過ぎに予想だにしない光景が。走って、自転車で、バイクで、それはもう信じられない数の人が集まってきました。逆に予想を上回る集まり方に僕はぶっちゃけプチパニック。(来てくれた人には申し訳ないですがホント「ソンビ」のようでした)ギターを抱えたCoccoのスペースを何とか作って、前の人から座って貰って円を作り、ギリギリライブが出来る状態。群集心理で写真を撮り始めるお客さん(?)に向かって本人自ら一喝すると、ザワメキが一瞬にして緊張感に変わりました。これで空気が一変しました。彼女は今日大阪に歌いに来た理由を話し出すと、路上が完璧にライブ会場に出来上がってしまいました。「自分で船を漕ぎ出すく為に」おそらく練習し始めたばかりの少し稚拙なアコギで、新曲を演奏し始めました。(なんで活動中止の人が新曲やるんだよ!・・・泣)あまりの究極な状態に・・・正直、何曲やったか覚えてません。多分、2、3曲。いつ終わるか解らない即興なので「終わって逃げ道の無いこの“ライブ会場”からどうやって逃げるか?」を考えていると、落ち着いて曲に浸ってる余裕は皆無でした。ただ、お客さん(?)は泣いてる・・・余裕は無かったけれど、それは生演奏弾き語りの限界を超える感動的なモノだったのは間違い無かったと思います。終わって大歓声の中、無理やりタクシーを捕まえて、夢中で心斎橋を後にしたことは殆ど記憶に無いです。もう必死(のパッチ)。しかし、こんなケジメの付け方って・・・普通こんなこと絶対しませんよね。でも、彼女がいかに「誠実」で「歌うことが好き」であるかが残っただけで僕は良かったような気がします。そこには数百人の人しか居なかったけれど、大阪城ホールに集まってくれた8000人に向けて、そして大阪に向けて、彼女の「想い」は残ったんじゃないかと、現場に居た僕は思いました。
次の年、僕はRUSH BALLというイベントをグリーンズさんと共催させて頂くことになります。この心斎橋ライブの一件で「歌いたくなくて辞めたのではない」ことを確信した僕は、「餅は餅屋」の精神で機会があれば、彼女の「船」が出来てさえ居れば、お誘いしようと思い手紙を書きました。(彼女の場合、コミュニケーション手段は手紙か直接話すかの二択)返事が無い中で、もし当日急に現れても(そんな粋なこと平気でしそうでしょ?)ブレイクタイムで何とか現場処理しよう、とグリーンズのF本さんとは二人だけで話してました。開催のほんの数日前に手紙が届きました・・・おそるおそる空けてみると、まだ「船」が出来てないと。ただ「歌いたい」気持ちは心底伝わってくる、それはせつなくも希望に満ちた手紙でした(泣・・・何回泣かされとんねん)。
そのまもなく後、彼女は「絵本」を出版します。大阪でその原画展を開くにあたり、展覧会の内装を自分で行う為(これも実に彼女らしい)、久々に会うことが出来ました(喜)。その原画の中で、ひときわ目立つ絵がありました。全く無知な僕でも圧倒される“自画像”がありました。その絵は、RUSH BALLが行われている時間に、神戸で歌ってる自分を描いた絵であることを知りました。・・・もう、なんとも言えない気持ち・・・(もちろん心の中で号泣)、それはそれは希望に満ちた、力強い絵でした。「絵」というよりは「歌」を聴いてる感覚でした。その原画展のレイアウトは、彼女が殆ど全てを手作りで徹夜で行いました。絵が解らない僕にも、思い入れを差し引いても、実に感動的な原画展でした。「こんなん誰が気付くねん!」という、得意の悪戯やドッキリもいたるところに仕掛けられ、それは「笑い」から「希望」につながる、なんか関西人が一番グッとくるテイストに溢れた空間になったと思います。「南の島の星の砂」と題されたその絵本は、彼女の沖縄に対する「愛」がつまったステキな絵本として出版されました。この時点で彼女は、まだ沖縄で歌えませんでした。愛し過ぎて、歌えなかったのです。
`97~`02の出来事・・・次回`03~`07につづく
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