「僕とフィッシュマンズ」
今年の闘魂編のトリ、フィッシュマンズ。
今日はその訳を書きたいと思います。主催者のよた話、お時間あればお付き合い下さい。
フィッシュマンズを初めて見たのは確か90年、新宿ロフト。
当時、世は所謂バンドブーム。フィッシュマンズはラ・ママ、ロフト界隈では既に一目置かれてる存在でスピッツ、真心ブラザーズ、the pillowsらと対バンしていた。
会社に「東京に行って若手バンドを探してきなさい!」という、若干青田買い的な意味合いで出張し、出会ってしまって一目ぼれならぬ一聴ぼれ。
そうそう、彼らの編成はボーカルギター佐藤くん、ギター小島くん(のち脱退)、ドラム欣ちゃん(現スカパラ)、ベース譲くん(現Polaris)の4人に当時キーボードにハカセが入り5人編成になったばかり。その年OSAKA MUSEでイベントに呼んだのが仕事としてのはじまり。
翌年メジャーデビュー後、めきめきと頭角をあらわ、、、さず、プロモーターが悪いんだかなんだか。そいえばチキンジョージで当時大阪では評判になっていたウルフルズと2マン企画をしたのは、僕のイベンター人生でも何本指に入るかの思い出。ウルフルズは「東でフィッシュマンズは今凄い!」、フィッシュマンズは「関西でウルフルズはキてる!」ような緊張感を持ったまま、当日を迎えて集まったお客さんはナント50人ぽっち!(おい!)ホントすいませんでした。どっちもキてなかったのです。いやいや、若気の至り。
ライブも作品もとても良い!こんなバンド居ない!と思って宣伝、イベント色々やったんですけど全然動員が伸びない。何回やっても大阪でのワンマンは150人・・・。珍しく穏便な佐藤君がキレ気味にステージで「イイことやってると思うんだけどなっ!!」と言ってたのをとても申し訳なく感じる日々。
思うに当時「相方」が居なかった・・・。あまりにも孤高で、ビートバンド中心のシーンに置いてレゲェ、ロックステディなバンドはほぼ居なかった中、イベント組むのも非常に難しかったし、そんなマーケットも無い。フジロックを始めとするフェスもまだ旺盛では無かったし、「ロックイベント」はあっても"その系"のイベントは皆無だった気がする。
のちにダブ(エフェクトを駆使したレゲェのジャンル)に傾倒していくとある意味マニアックな表現は更に孤高の存在に。しかし曲と演奏のクオリティは信じられないくらい上がっていっていた。
活動半ばにして彼らにはマネージャーが不在の時期があり、何故か僕がツアーのブッキング、打合せ、車の運転、物販、お客さん整理、搬入出、打上げetc、何ツアーかやらせて貰ったのです。
ツアーで毎日ハコが変わりつつも演奏が凄まじくなっていくサマを見れて・・・個人的に90年代はフィッシュマンズに「ライブとはなんぞや?」ということを教えて貰ったのは本当に良い経験をさせて貰いました。(あとBO GUMBOSも)
だから音泉のDNAには間違い無くフィッシュマンズも入っているのです。
「Oh!Mountain」というライブ盤が出ていて、それは丁度この頃のツアーのライブを収めたもので今でも感慨深い1枚。
震災以降チキンジョージとFM802と一緒に始めたイベントがあって、97年に「東京No1SOUL SET」に共演して貰ったのはとても大きな出来ごとでした。
プロレスで言うと新日本に出戻った前田日明が「無人島だと思ったらそうでは無かった」と藤波辰彌を称賛したように(このくだりいらない?)、そこから所謂「相方」になるような同志的なバンドも幾つか共演できるようになり(スカパラ、ボアダムズ、コーネリアス、UA他)少しづつながらセールス的にもやっと頭角を現すようになってくる。と、いっても最大心斎橋クアトロ2日、それも売り切れず・・・。(売り切れない音泉の芸風はこの頃からあった・泣)
しかし決して売れてるとは言えないけれど、その活動は各方面から一目おかれるバンドにはなっていました。
同じ年、大阪城野音であったイベントに出演させて貰い持ち時間40分を「ロングシーズン」という1曲で勝負。潔さは最高だったのだけれど、大阪の野音は音量規制があり、客席で聴いているととても消化不良・・・「こんなもんじゃないのになぁ・・・」と、とても悔しい思いをした。(きしくもここでは東京スカパラダイスオーケストラも出演)
佐藤くんは売れたがっていた、というより更に多くの人に自分の音楽を理解して欲しがっていた。
802のエライ人にも万博のミートザワールドビートというイベントに「野外のおっきなとこでやりたいっす!」と平気で懇願。僕に力無かったのか、タイミングが合わなかったのか、結局出れずじまい。しかし、万博でやらせて頂いてたとしても、同じく音量規制の狭間でもがくことになってたんだろうと思う。
もの凄く音に拘る、拘らざるをえない曲と演奏だったので、最後関西ではPAのインフラが良かった心斎橋のクアトロしかやるとこ無くなっていた気がします。
佐藤くんはプロレスが大好きだった。因みに嘘みたいだけどバンド名の由来は「フィッシュマン」というメキシコの覆面レスラーからきている。ツアーのパスが「プロレスの星"アステカイザー"(アニメの実写版)」とA・猪木が握手している写真を使ったのもあった。A・猪木好きでバンドが主催したイベントのタイトルは「闘魂」。僕もかなりの「猪木信者」だったので、98年に猪木の引退試合を東京ドームに見に行くか行かないかで、普段寡黙な佐藤くんとかなりの激論を交わした覚えがある。当時ロートルにムチ打って現役を続行し、見てられない試合ばかりだった猪木を「もう見たくない!」という佐藤くんに「最後は見届けるべきだ!」という僕と意見が真っ二つ!結局僕はアリーナ指定席を買って見に行き3回号泣。因みに3回の内訳は①弟子の藤波がIWGPチャンピオンになった瞬間②パーキンソン病と戦っている盟友モハメッド・アリがダマテンで現れた瞬間③猪木が最後花道から消える時。(このくだりもいらない?)こんなに泣いたのは人生で初めてだった・・・。行って本当に良かった。後で聞くと佐藤くんも当日立見で見に来てたとのこと。ほら!やっぱり!!かわいくないなぁw
音楽が崇高で僕なんかは何も言えず、最後までプロレスや幾つかのどうでも良い会話しかすることが無かった。
99年3月、佐藤くんは突然逝ってしまう。
とてもじゃないけど信じられなかった。
しばらく何も手につかない時間が続いた。
東京でファンの方達も参加出来る音楽葬が行われるというので参列させて頂く。もの凄い人だったのと、式場に入ると佐藤君の写真とフィッシュマンズの曲をひたすら、ひたむきに演奏する残ったメンバーの姿があった。押し寄せる現実と残されたメンバーが奏でる名曲に、こんなに泣いたのは人生最後なくらい泣いた。あとは良く覚えていない。
それから何回かフィッシュマンズは佐藤くんが居ない状態でライブを行い、僕はその殆ど見に行かせて貰った。(ほぼおっかけですな)
そしてなんとか大阪でもこの素晴らしいバンドを招くことが出来ないか、10年以上機会を伺っていました。
そして今年やっとそれが実現することになり、これも全ての皆さんのおかげと思い本当に感謝しています。
そもそも泉大津フェニックスを大阪府に誘致頂く時、「音量規制の無い会場が欲しいです。大阪の野外会場は全て規制があるんです。あとは芝生があれば何とかなります。」と、第一条件は存分な音量を出せる環境に拘っていたのは、フィッシュマンズのトラウマがあったからに他ならない。(しかしこれだけ夏が高温になる前の話しで、今の心境は「音量規制<日影」に・汗笑)
そう、だから自分にとってこの会場でフィッシュマンズのライブが実現するまでは死に切れない!は、オーバーにしてもまぁそれなりの想いはあります。
そんなこんなで「僕らがプロレスに拘る理由」を書いてみました。
PS.最後フィッシュマンズのメンバーだったバイオリン&キーボードのHONZI(大阪生まれ)にもこの日のイベントは捧げたいと思います
清水音泉/番台(文中敬称略)
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